株式会社アーアル研究所
代表取締役社長 小川晃弘
岩手県一関市大東町渋民字田中1番地
常務取締役(技術担当) 小川敏弘
岩手工場長 金野忠永
岩手工場生産技術部長 板垣昌紀
岩手工場製造部長 千葉学
品質保証部長 菅原佑哉
総務経理主任 山口純子
最寄りの鉄道駅
東北新幹線の最寄り駅 一ノ関駅(車で40分) または 水沢江刺駅(車で30分)
在来線の最寄り駅 JR大船渡線 摺沢駅(車で10分)
お車でお越しの場合
東北自動車道の最寄りIC 一関IC(車で45分) または水沢IC(車で40分)
私たち株式会社アーアル研究所のルーツが最初にレンズの製造を手掛けたのは、昭和19年にさかのぼり、静岡県内、ヌマヅ光機製作所という会社の創業です。当時日本は第二次世界大戦の渦中です。戦況が悪くなるにつれて光学製品の製造や輸入が難しい状況になり、職業軍人であった創業者が国策指示でレンズの加工に携わることになったようです。
しかし、生産体制が整ったのは敗戦後のことでした。とにかく資材がなく、機械のモーターひとつ手に入れるのも苦労する状態で、創業者はレンズの製造を軌道に乗せようと苦労しながらも、戦前からの家業であった漁業、水産加工も並行して生計をたてていました。
そんな状態ではありましたが、創業者は機械やカメラが好き、国産技術に将来の希望を抱きあきらめず、少しずつレンズ製造の会社を育てつづけました。
平和な時代が根付くにつれ、カメラを主とする日本製品はまず世界に受け入れられるようになりました。輸出量が増え、日本も豊かさを取り戻すにつれて国内需要も伸びていく。そうしてレンズの需要も飛躍的に伸び、事業も軌道に乗ることができました。
このころ、生産性を向上し、大量生産と製品価格の低減を実現するため、手工業的プロセスで生産されていたレンズにも機械や補材の高度化を活用した生産革新が起こります。
一方で、国力を増した日本の円は強くなり、円高が恒常的に進行するようになりました。レンズの値段も製品の競争力を確保するため、上がるものから下がるものになり、生産性が低いままの工場は経営が難しくなってきました。
この変化を深刻に受け止め、最新の生産性を実現したいと意気込んでいたのが、当社の前社長である小川幸一です。
工場に生産性の高い設備の導入をはじめとする改革を持ち込もうとしましたが、職人的で高齢者の多い当時の工場では若い後継者の発言はスムーズには受け止められず、革新も進まなかったようです。
そこで、前社長は自らが新しい会社を興し、理想の生産効率を実現する道に踏み出しました。数年にわたる検討の末、岩手県大東町を適地と定め、昭和49年に企業登記、個人的な開業資金や少人数の創業メンバーをなんとか確保し、昭和52年に工場の開設に至りました。
この新設会社が株式会社岩手ヌマヅ光学という会社で、現在のアーアル研究所に直接つながるものです。
資金もない、経営者も技術者も経験不足、信用も極小という中で当初は苦労の連続でしたが、粘り強い岩手県の人柄、まじめさ、メンバーの若さが経営者の構想を一丸となって後押しし、次第に規模の大きなお客様にもご利用いただけるようになってきました。
コンパクトカメラ、AF交換レンズ、カムコーダーなど当時日本の光学製品は10年おきくらいに世界を席巻する新製品が生まれ、その都度レンズの需要も伸びました。
そのような状況を背景に生産性の追求とまじめな仕事を評価いただき、お客様を拡大し、一定の安定した運営ができるようになりました。
現場では自動化もはじまり、更なる生産能力の向上に投資が続きました。昭和63年には青森県弘前市に新工場を建設し、ここで現在の社名につながるアーアル研究所という商号を使用するようになります。
この社名は、レンズの加工精度の基本である面のR(Radius)精度を究めようという思いを主につけられましたが、アールではなく、アを重ねた造語とすることにより、まずは名簿(五十音)では最初に掲載される。そこからでもトップを意識しよう。学都弘前において、研究所とすれば、子供を中小企業に入れて心配している親御さんが少しプライドをもってくれる…など会社を成長させたい当時の様々な想いが詰め込まれている社名なのです。
20世紀も終盤を迎え、デジタルカメラが世の中に普及しはじめると、最後の国内でのレンズの大量生産の機会が訪れました。当社も一関と弘前の2拠点合算で月産200万枚を超えるレンズを生産して、量産工場としての力を発揮しました。
しかし、2000年のころを境に光学業界の生産拠点は中国をはじめとする海外に大きく流れていきます。当社においてもお客様の海外生産拠点がスタートするたびに量産の仕事は減り続け、一関と弘前のふたつの工場の生産能力は過剰なものとなってしまい、採算性も悪化の一途をたどりました。
業界のなかでも量産における効率を追求してきた当社のダメージは大きなほうだったかもしれません。
結果、苦渋の決断となりましたが、主力工場の位置づけにあった弘前工場を大幅に縮小し、最終的には工場を閉鎖することになりました。
ただ、岩手一関工場に統合しただけの縮小とはならず、東南アジアのメリットを事業に生かす希望を持ち、2002年にベトナムを進出地と定め、新たな工場を開設しました。
これがアーアルテクニカルリサーチベトナムです。一関工場は弘前からアーアル研究所の商号を受け継ぎ、現在の岩手・ベトナム2拠点体制が構築されました。
田舎の中小企業による、ベトナムへの企業進出には当然苦労が多くありましたが、日本、ベトナムの社員、地元自治体などの厚い志のおかげで、また、お客様、材料メーカー様などのご支援のおかげで、手作りの小企業ながらすでに20年の実績を重ねることができております。
当初のベトナムでは加工精度の比較的簡単なもの、量産性の高いものが主流ではあったのですが、経験を重ね、設備が整うにつれ、国内に近い規格での加工も行えるようになり、また人手が多く、常時24時間の操業もできることから国内では工数を確保しがたい複雑な工程を要する加工もできるなど、ベトナム独自の強みも育っています。
岩手工場とベトナム工場の人財、ノウハウ、拠点固有の強みを複合して、長期的に安定した供給能力を提供し続けることが、当社の基本的な姿勢です。
これまで申し上げましたように、当社の歴史は様々な困難に直面し、苦労のなか乗り越えてきたことばかりですが、そのすべてが今につながる経営や技術の糧となっています。
なによりも常にこの事業に期待し、支えていただけた社員、お客様、関係の皆さまに深く感謝し、自社だけではなく、社会との共存を目指して一層の事業の価値の向上に努めていきます。
代表取締役社長 小川晃弘
1974年 9月
1977年 6月 1978年 7月 1982年 5月 | 株式会社岩手ヌマヅ光学 として設立登記 代表取締役社長 小川幸一 岩手工場操業開始 心取・コーティング・接合の各工程を開設 レンズ研磨研究室開設 |
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1988年 12月 1998年 12月 2000年 11月 2001年 12月 | 青森県弘前市に新工場 株式会社アーアル研究所 を開設 弘前工場新棟の開設 グループ生産枚数月産200万枚へ マルチコート工程開設 岩手工場を 株式会社アーアル研究所 に商号を統一 |
2002年 8月
2003年 12月 2004年 1月 2006年 5月 | ベトナム・ホアビン省にアーアルテクニカルリサーチベトナム開設 (ベトナム工場) ベトナム工場の現在の自社社屋が完成・使用開始 チャン・ドゥック・ルオン ベトナム国家元首がベトナム工場を訪問 弘前工場でのレンズの生産を終了 |
2007年 7月 2014年 5月 2017年 2月
2018年 5月
| 代表取締役 小川晃弘 就任 ベトナム工場軟質ガラス研磨室新設 ベトナム第4工場新棟新設(車載用レンズ/医療用レンズ) クリーンルーム新設 マルチコート加工機16号目の装備(連続式含む) 車載センサーレンズの生産開始 |
2020年 11月 | 医療機器用途などの極小径レンズの専用工程開始 |